鎌倉殿と西方寺
北条義時が比企一族から迎えた正室「姫の前(ドラマでは比奈)」との間に生まれたのが、次郎朝時(ともとき)。泰時の弟にあたります。
見落としたのかも知れませんが、ドラマでは登場していません...
令和4年10月末からドラマにも登場しています。
そのドラマでもあったように、比企と敵対する時政の謀略により比企一族は滅びてしまいます。この事が原因で姫の前は義時と離縁し、朝時は10歳で母と生き別れに。
成人した朝時はある官女に恋をします。
相手は女中取締役「松島」という絶世の美女。
当時、幕府2代執権である義時の次男で、御家人でもあった朝時ですが、松島は一向になびく様子が無く、思いあまって御殿に侵入し、朝比奈三郎義秀に捕まってしまいました。
この事をきっかけに、朝比奈義秀と松島は互いに思い合うようになりますが、叔母である尼御台「政子」がその中を引き裂いてしまう。
悲しんだ松島は自害してしまい、騒ぎの発端となった朝時は北条家ゆかりの地である伊豆へ行くことに。
怒ったのは朝比奈義秀。実は彼は和田義盛の三男だったのです。
何かと北条と意見が合わなくなっていた和田義盛は、この事件を端緒とし、のちの「和田合戦」に発展した・・・という内容の講談が「鎌倉星月夜」として知られています。
その後、朝時は伊豆で出会った佐竹勝重の娘「お滝」を側室に迎え、すでに長男光時の下に双子の男子が誕生しました。
しかしこの時代、「双子は不吉」という迷信が強く、双子の弟は捨てられる運命に。
それを救ったのは祖父である佐竹勝重。実は勝重は双子の母の父親、つまり双子の祖父にあたるのでした。
伊豆に連れて行かれた双子の弟は「勝家」命名され、我が子として17歳まで伊豆で育ちます。。
朝時は父の義時はもちろん、全ての者に双子の存在を隠し通すよう命じ、勝家という弟がいることさえ知らぬまま、双子の兄「時章」は鎌倉で、自分が本当は北条の人間であることを知らぬまま勝家は伊豆で育ちます。
これらのことは、いくら歴史書を探しても出てこないでしょう。
徹底的に秘匿され、西方寺の寺伝にしか出てこないのですから。
さて、そんな勝家が父の朝時、兄の時章と再会するきっかけとなったのが、後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討つ、つまり北条家を滅ぼそうと起こしたいわゆる「承久の乱」。
北陸道経由で京都出征を命じられた朝時は、信州で17年ぶりに勝家と対面します。
その後勝家は、兄時章と馬を並べて越後から越中へ進軍しますが、片貝川で受けた矢傷の悪化により戦線離脱、八尾の各願寺に留まることとなり、これを縁として終生、越中に定住したのです。
1260年頃に出家し、各願寺を頼って真言宗の僧となり、庄川町三谷に「実相院」を開きました。
1470年頃、その実相院の6代目院主の「勝兼」が北陸布教に来られていた「本願寺8代蓮如上人」に出遇い、深く帰依して浄土真宗に転宗。
上人の弟子として20年近くお仕えした後、故郷の三谷村に戻り、実相院改め「三谷山西方寺」を開いたのが1491年と伝えられています。
私「雅章」で西方寺24世、実相院からは29世という事になります。
以上、西方寺の歴史でした。